第1回

2013.07.04

働く女性 シンガポール編<1>

●インタビュー旅行 そのきっかけ

シンガポールに行ってきました。

「シンガポールで働く日本の女性にインタビュー」を目的に!

私自身、1年半ほどシステム販売会社の出向社員としてシンガポールで働いた経験があります。
そして私の帰国後、私の後任の後任として、後輩の女性が、シンガポールに赴任しました。ただ、彼女が着任してすぐに、私が働いていた会社は外資系の会社に買収されてしまったのです。その時彼女は、その買収元に籍を移してシンガポールに残ることを選び、今もそこで働いています。

彼女は、なぜ残ることを選んだのだろう…?彼女は、シンガポールでどんなふうに働いてきたのだろう…?キャリアコンサルタントとしてずっと興味を持ってきました。

彼女とは10年ほど前に一度シンガポールで会ったのですが、その時はゆっくり話を聞く時間がありませんでした。今こそ聞いておきたい!そんな思いが今回のインタビュー旅行のきっかけです。

 

そして、もう一つ大きなきっかけがあります。

 

十数年前、私が赴任する時期と重なって、私の妹の大親友、ユリちゃんが、旦那さんの仕事の関係でシンガポールに来ていました。彼女とは、シンガポールにいる間に会ったのですが、私が帰国してからは連絡が途絶えていました。

それが、数年前、突然電話をもらったんです。
シンガポールから…

「もしもし、隆美おねえちゃんですか…?」

妹以外で私のことを「隆美おねえちゃん」と呼ぶ…一体誰?

「ユリです…」

「え~~っ!ユリちゃん!○○(妹)の友達のユリちゃん?」
「どうしたの突然!元気~?」

「元気です!相変わらず。」

「ところで、隆美お姉ちゃん、カズヨちゃんって知ってます?」

カズヨちゃんとは、その、私の後任の後任としてシンガポールに赴任した後輩です。

ユリちゃんの話によれば、最近通い始めたジムで日本人女性を見かけたので何となく声をかけ、色々話をするうちに、お互いに「私」を知っているということがわかってとても驚いたということでした。

シンガポールの日本人社会は狭いといえば狭いのですが、それでも3万人近い日本人の中でたまたま出会うのは驚きです。

「縁」って、本当に不思議ですね。

 

その電話をもらってからずっと、「絶対シンガポールへ行って二人に会おう」と私は考えていました。

それがやっと今回実現したというわけです。

今回の旅で、2人に会う目的にプラスして、他にもシンガポールで働いている日本人の方々に会ってお話聞けたらさらにうれしいなという欲が出て、ユリちゃんにコーディネートをお願いしてみました。彼女は、快く引き受けてくれて、4名の素敵な女性の皆さんを紹介してくれました。

これからその4名の方々、そしてカズヨちゃんのストーリーを順番にご紹介させていただきます。

…と、その前にコーディネートを引き受けてくれたユリちゃんのご紹介をまずさせていただきますね。
そして、ついでに私がなぜシンガポールに赴任することになったのかも簡単にご説明しておきます。

 

<ユリちゃんのご紹介>

ユリちゃんと私の妹は、語学専門学校時代の親友で、時々我が家にも遊びに来ていたので、私もユリちゃんとは面識がありました。

ユリちゃんは、ご主人と、ご主人がロンドンで大学院を終えて日本に帰国した時に知り合ったそうです。
そのご主人が、博士課程に進んで研究を続けるために、もう一度ロンドンへ行くことになったのをきっかけに、結婚して一緒に行くことを決心。

彼女は元々、語学や海外に興味があって語学学校で勉強をしていたわけですが、海外で生活することはあくまでも「夢」であって現実的に追いかけてはいなかったそうです。
ご主人に出会って海外生活が現実味を帯びてきた時、憧れていた海外生活ができる喜びも、現地で働くことになる不安もあまり感じず、ただただ、ご主人と一緒にいられることの方がうれしかった…
ユリちゃんの場合、何よりも「恋の力」の方が勝っていたようです。

ロンドンで、ご主人は研究を続け、ユリちゃんは、すぐに日系人材エージェントを介して日本のメガバンクのデータ管理をする子会社に入社。ライブラリアンというポジションで、データ管理業務のほか、英語のできない上司の通訳、書類の翻訳、お茶入れ、休憩室の片づけetc…いろいろ経験したそうです。

ご主人と一緒にいられる幸せを感じながらも、慣れない環境はやはり辛いこともあり、「うつ」のような状態の時もあったとか。それでも、「若さ」と「人と競争するのは嫌い。でも『できない自分』はもっと嫌い」という考えから「やるしかないでしょ!」と腹をくくって乗り越えたといいます。

3年ほど続けたその仕事も、息子さんの出産を機に退職。その後は家事、育児をやりながら、論文をタイプするなどのサポートでご主人の博士課程修了を支えました。無事博士課程を修了されたご主人は研究職を目指していろいろな大学を当たられましたが、決まらないうちにビザの期限が迫ってきたので、とりあえずご主人のお父様が経営される会社のシンガポール支店でアルバイトをしながら引き続き研究職を探すということになりました。

そして家族で渡星。これがユリちゃんとシンガポールとの出会い。そして、私とユリちゃんとの再会につながりました。

研究職が見つかるまでの間、半年ほど滞在する予定だったシンガポールですが、翌年ご主人のお父様が亡くなられたことで、ご主人がシンガポールでのお仕事から離れることが難しくなり、ご主人共々ユリちゃんもシンガポールに腰を落ち着けることを決断。
4人兄弟の末っ子で、学業一筋だったご主人は、家業と一番縁遠い人と思っていたユリちゃんにとっては正に想定外の展開になりました。

そして月日が経って、息子さんが小学校に入学。時間ができたユリちゃんは、ご主人の会社を手伝うようになります。

ただ、その少し前に、ユリちゃんの実家のお母様がご病気を患い闘病が始まっていました。実家ですから当然日本です。お母様の闘病中、約10年の間、ユリちゃんはシンガポールと日本を行ったり来たりしながらお母様の看病を続けたそうです。

とても残念なことにお母様は亡くなられ、沈んでいたユリちゃんの様子を見かねたご主人が、自宅近くのジムに入会することを強く勧めてくれたそうです。
そして、このジムでユリちゃんと私の後輩が出会うことになりました。本当に人の縁はどこでつながっているのかわからないものですね…

その後、お友達の勧めで日本語教師の勉強を始めたユリちゃんは、シンガポール経営大学の日本語授業の会話補助ボランティアを務めたり、後程インタビューに登場してくださる女性の計らいで日本人会の日本語講座講師を経験。現在は、日本人会で始まった英検の試験に関わる仕事や、その他ボランティア活動をしています。

今、ユリちゃんの気がかりは、日本で一人暮らしをしているユリちゃん自身のお父様のこと。
体調が万全ではないとのことで、遠く離れて暮らすユリちゃんはお母様の時と同じように歯がゆい思いをしているようです。
ユリちゃん自身も少し健康に不安を抱えているようで、ユリちゃんは、海外で暮らす方々にとって最大の関心事である、『日本に残してきた家族の問題』や『自分自身の健康問題』にずっと立ち向かってきて、そして今も立ち向かっています。

今回、ユリちゃんはコーディネーターということで、インタビューさせてもらったわけではないのですが、他の方々に負けず劣らず濃い人生経験で、簡単にプロ―フィール化するのがもったいなかったので、長めのご紹介になりました。

ずっと元気で過ごしているとばかり思っていたユリちゃんですが、ご家族のご病気や自分自身の健康不安を抱えながらの海外生活はかなり大変だったと思います。過去形ではなく、現在も頑張っているので本当に頭が下がります。

でも、そんな状況でも、ユリちゃんは、「いつも明るく元気で気配りの出来る人」!今回は本当に彼女のサポートがなければ成り立たなかった旅行なので、感謝しても、しても、しきれません。この場を借りてあらためてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました!!

*********************************

さて、ついでに私がシンガポールへ行くようになった経緯もお伝えしておきますね。
時々、仕事で結果を残して抜擢されてシンガポール行きの切符を手に入れたと勘違いされることがありますが、私の場合、そんなにカッコいいものではありません。私が勤めていた会社は、当時、従業員数200人弱の小さいベンチャー企業でした。かなり自由(いいかげん?)な社風で、海外赴任に向けて大手企業のように試験があるわけでも、TOEICのスコアを要求されるわけでもありませんでした。そのおかげである意味簡単に、私のような人間でも海外赴任させてもらえたのだと思います。

<私がシンガポールへ行った理由>

シンガポールへ行く1年半ほど前、会社の飲み会の席で、NASA(アメリカ航空宇宙局)で働いた経験のある同僚から「子供をバイリンガルにしたければ14歳までに海外に連れて行かないとだめだよ」と言われました。その同僚は言語学的な理由や何やかや、色々説明してくれましたが、私が引っかかったのは、「14歳までに…」という部分。その時、私の娘は13歳。期限が迫っていました。これがそもそもの発端でした。

ただ、「娘をバイリンガルに」というのは表向きの理由で、実は私自身が海外に行きたかっただけなんです。いつか海外で暮らす…それが私の幼いころからの夢でしたから。

元々、私は海外へのあこがれが強く、小学生のころから毎週日曜日、家族がまだ寝ている時間に一人で起きて「兼高かおる世界の旅」という番組をテレビで見ては自分が世界を旅しているところを想像して楽しんでいました。そのころから心の中にあった海外で暮らしてみたいという思いがその同僚の言葉で一気に大きくなったのだと思います。

そしてもう一つ、アメリカ人と結婚して子供が生まれた妹(この妹の親友がユリちゃんです。)が、その時期に、家族でアメリカに帰ることになったのも大きな刺激になりました。
私もアメリカに留学すれば、途中何かあっても妹のところに転がりこめるかもと…

同僚との会話の後、早速私は行動を開始。まずは海外子連れ留学をめざし、「海外留学相談室」という一冊の本を購入しました。(実は何から始めればいいのかわからなかったのでとりあえず本屋に行ったというだけの話ですが。)
そして、その著者が個人で開いている英会話教室がたまたま近くにあることを知ってすぐに入会し、英語の勉強をしながら留学についても色々アドバイスを受けるようになりました。
その著者が、「私が卒業したアメリカの大学には、学生寮の寮母として働きながら大学に通っている人がいた。」という話をしてくれました。それが今でも、そして子連れでも可能かどうかをすぐに確認してもらうと、なんとOK!その道が開けてからは、「寮母として働きながら子連れ留学」実現に向けて英語の勉強と手続きを進めていきました。そしていよいよ入学金を払い込むという段階になって、会社の上司に留学についての報告をしました。

当時私は、CADシステムの国内営業を担当していましたが、特に仕事に問題を抱えていたわけでもなく、むしろかなり前向きに楽しく仕事をしていたので「子連れ留学をするので半年後に会社辞めます。」と伝えた時、上司にはとても驚かれました。そして「ちょっと待て!」と言われてしまいました。
それから数日後、改めて上司に呼ばれ「もうすぐマレーシアに開発拠点をオープンするので、今、シンガポールいる○○君がマレーシアに移ることになる。その後任としてシンガポールに行くのはどうだ?」と言われました。まさかそういう展開になるとは夢にも思っていなかったので驚きでした。ただ、当時私は、母子家庭の母親として一人で娘を育てていたので、しっかりとした収入を確保しながら海外で生活できる安心感には到底逆らうことはできず、あっさりと行先をアメリカからシンガポールに変更してしまいました。

シンガポールに赴任中に起きた様々な出来事については、いつかお話させていただきますが、とりあえず行くきっかけはそんな流れでした。

 

では、いよいよ次回からは「働く女性・働く男性 シンガポール編」をお届けします。

インタビューを終えて
インタビューを終えたわけではありませんが関係するお話を少しだけ… 将来海外で働きたいという就活生の相談を時々受けますが、「大会社に入るより、海外進出が必要な小さい会社入る方が手っ取り早いかも」とアドバイスしたりします。これは自身の経験に基づく話です。ただし私の場合、99%は運が良かっただけなのですが… また、海外で働いている女性には、ユリちゃんのように海外の日系人材エージェントを利用している方が多くいます。特に日系に限る必要はないのですが、日本語を必要とする仕事は当然日系のエージェントに集まります。保険会社のヘルプデスクなどは求人数が多いそうです。
TOPへ